心と体を元気にする鍼灸治療室
はりとお灸の奏玲治療室(そうれいちりょうしつ)
〒227-0062 横浜市青葉区青葉台1−32−55
東急田園都市線青葉台駅から徒歩10分
受付時間 | 9:00〜11:15/14:45〜18:45 |
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休診日 | 日・祝日・木(不定期なお休みが入る場合があります) |
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わたしは横浜市旭区鶴ヶ峰の県営アパートで生まれました。お産婆さんが来てくれて取り上げてくれたのです。昭和30年代当時アパートのまわりはには森・田んぼ・麦畑・宅地造成地・新幹線の工事…などなど、全てが遊び場で草野球したり、カエルを捕まえたり、秘密基地を作ったり…もう遊ぶのに忙しくて小学校で勉強した記憶はないです。
小学校6年生のときにたまたま受けた眼科検診で網膜の異常を指摘されました。大学病院で精密検査をした結果『網膜色素変性症』と診断され、「この病気は失明する可能性が高く治療手段はない」と宣告されました。その頃は普通に見えていたので失明するなんて他人事のようでしたが両親のショックは大変なものでした。
中学生の時にビートルズと出会い、それからロックやジャズやクラシックなど色んなジャンルの音楽にハマっていきました。だからやっぱり忙しくて(笑)学校の勉強する時間はなくて成績は下から数えた方が早かったです。そんな感じでしたから高校進学に選択の余地はなく、無理やり入った高校に馴染めるはずもなく、一年も経たないうちに退学してしまいました。そんな中でも常に音楽が心の友で音楽ばかり聴いていました。今、治療室では約2万曲のコレクションの中から、季節や天候、その日の気分に合わせた楽曲を選んで流しています。
高校を中退してから横浜駅地下街のイタリアンレストランでウエイターのバイトをしました。職場の人達はやさしくて居心地はよかったけれど、「やっぱり高校へ行きたい!」と思うようになりました。
こんな自分でも入れる高校はないかと自分で高校案内の本をパラパラめくり都内の定時制高校を見つけました。自分で決めて、入りたいと思って入った高校というのはやっぱりいいものです。定時制なので夕方5時半から始まるというのも自分の生活スタイルにぴったりだし、同級生の大半が高校中退者で話が合うし、とにかく何でもかんでも面白くて陸上部では全国大会に行ってしまったり、皆さんは信じられないと思うでしょうけど、生徒会長をやったりもしたんです。
定時制高校の4年間はあっという間に過ぎ、進路を考える時期となり、両親は将来見えなくなったときのために盲学校に入ってあん摩と鍼の勉強をするのがいいのではと言っていました。わたしも決断できず悩んでいた所、陸上部の顧問の先生が「まだ若いんだから大学に行って将来のことはじっくり考えるといいよ」とアドバイスしてくれて大学に行くことにしました。
大学では文学部の哲学科で社会学を中心に学びました。それなりに勉強もしましたが、ビッグバンドジャズのサークル(中央大学スウィングクリスタル)に入ってドラムスを担当していたのでジャズ科ドラム専攻(笑)という感じのキャンパスライフでした。
大学を卒業する頃になると少しずつ視力が低下し始めていました。日常生活には支障はありませんでしたがみんなとは違うんだなという感覚は常にありました。バブル経済が膨れ始めていて大学生の就職は引く手あまたでしたからその気になればどこかの企業に就職できたと思いますが、目が見えなくなったら首になってしまうのでは?と思うと普通に就職する気になれず、目が見えなくても続けられる仕事はないものかと探した結果、盲学校の教員という仕事があることを知りました。
盲学校の教員になるためには自分自身も盲学校の理療科で3年間勉強して国家試験を受けて「はり師」「きゅう師」「あん摩マッサージ指圧師」の3つの免許を取得して、そこからさらに筑波大学の2年間の教員養成コースに行く必要がありました。わたしの場合、中学校卒業後ここまで10年もかかったのにさらに5年も…随分悩みましたが心を決めました。
横浜市立盲学校(現:横浜市立盲特別支援学校)の理療科での生活は未知なことばかりでしたが、意外と面白くて引き込まれていきました。はり・きゅう・あん摩マッサージ指圧師の3免許取得後、筑波大学理療科教員養成施設にもなんとか合格して、盲学校の教員免許を取得しました。
公立の盲学校の教員という安定した仕事につくことができ、結婚して子どもも授かりました。このまま定年まで勤めることもできたのですが45才で教員を退職してこの治療室を営んでいるわけです、なんでか?
教員というのは教えることが仕事ですが教わる機会はほとんどありません。教科書通りに教える技術は熟達したけれど、様々な症状で悩む患者さんを治す鍼の技術はちっとも進歩してないのではないか…教職について10年ほどたった頃そんな物足りなさを感じました。いろいろな研究会を見て回り、現在所属している「東洋はり医学会」に入会したのです。ここの会員の大半は治療院を営んでいる治療家で、その先輩方から技術を手から手へと伝授してもらうことができます。盲学校の教員をしながら東洋はり医学会の定例会にもせっせと通いました。
東洋はり医学会の鍼術は経絡治療というやり方で、身体の気の流れを調えて治る力を高めて様々な症状を直していくというものです。鍼を皮膚に接触させる程度で気の流れが調い、脈が元気になり、皮膚に潤いが出て、お腹が温まり、自らの力で治っていく。経絡治療の素晴らしさに魅了されて治療院を開く決心をしてしまいました。
盲学校の教員をあっさり辞めて行く先の見えない自営業へ脱サラすることに同僚は驚いていましたが、東洋はり医学会の先生方のようになるぞ!と奮起。おおらかな妻の手助けもあり今に至っています。
★★略歴★★
1959年 横浜市旭区鶴ヶ峰の県営アパートで生まれる。
横浜市立鶴ヶ峰小学校、横浜市立西谷中学校卒業
私立高校入学⇒すぐ退学⇒イタリアンレストランで
バイト⇒定時制高校⇒中央大学文学部哲学科入学
1985年 中央大学卒業⇒横浜市立盲学校専攻科理療科入学
1988年 理療科卒業 はり・きゅう・あん摩マッサージ指圧師免許取得⇒筑波大学理療科教員養成施設入学
1990年 理療科教員免許取得、横浜市立盲学校の理療科の教員となる。
2002年 東洋はり医学会へ入会
2004年 横浜市立盲学校退職
「はりとお灸の 奏玲治療室」開設、室長となる。
2018年 一般社団法人 東洋はり医学会理事
静岡市出身。
聖和大学(現在は関西学院大学)幼児教育学科卒業、国立音楽大学教育音楽科2類卒業
横浜市立盲学校(現 横浜市立盲特別支援学校)高等部・横浜市立中学校で音楽の先生をしていました。室長とはそれ以来の付き合いです。
治療室では施術以外のことを担当しています。小さなお子様の託児もします。夫婦二人だけの小さな治療室ですから、家庭的なほっとできる空間を提供できるように配慮しています。
2020年6月29日、私たちにとって3頭目の盲導犬ヴィが来てくれました。
2018年3月生まれの6才の男の子です。
治療室開業とともに盲導犬ユーザーになった室長ですが、一代目レオ、二代目レノ、そして今回ヴィが家族になりました。この間16年、代替わりするたびに盲導犬は若返るのですが私たちは順調に(笑)年を重ねていてヴィは孫のようにかわいいです。
患者さんに「こんにちは!」するのが大好きで、治療室にもちょくちょく顔を見せます。穏やかで優しい子です。(犬が苦手の方の場合はハウスしますのでご安心ください)どうぞよろしく。
療室では奇数月に『奏玲通信通信』を発行しています。室長による健康アドバイスなど人気の新聞です。
(2024年9月1日発行)
★室長の健康アドバイス
「認知症への早めの対応」
思いっきり親ばか日記
新シリーズ
「ふわ&ちー&ヴィ(きっと)み~んな仲良し その15」